はじめに
ドイツ、ベヒシュタイン社およびグロトリアン社で方法及び実践を学んだ後、何年もの間執拗に追
い続けた結果、整音に関しては「私なりの明確な結論」が出ている。
調律師の芸術的感性を要求される分野として最も大切な「整音」に関すること、またそれに関連
した事柄について私独自の考えを余談を交えながら紹介して行くつもりである。細かい事まで説明
していると音楽音響学、音楽比較文化論、各ピアノ作品に対するピアノの音色はどうあるべきか、
までをも論じなくてはならなくなり、整音に関する分野だけでも分厚い一冊の本になってしまう。
したがってそれらはさて置き、ここでは枝葉末節なことは一切省き、重要な事柄についてのみ述べ
て行く。
何気なく書かれている文章の中に何年もかかって発見した大変重要な事柄が多数含まれているの
で注意深く納得の行くまで、出来れば実験をしながら音色要素の聴き方を訓練しつつ、何度も繰り返
して読んで欲しい。そして書かれている意味をしっかり理解してほしい。
「整音」と一言で云っても整調、調律、本体の設計、製造上の色々な事柄、また使用材料に密接な
つながりがあるので「整音」だけ切り離して論ずることは危険である。この事を踏まえた上でお読み
頂きたい。説明が抽象的過ぎると云う指摘も多々あると思うが、今のところこれ以上的を射た具体
的説明が出来ないのでご勘弁願いたい。私の整音理論を叩き台により深く考察して頂ければ大変嬉
しく思う。
説明の中で「香り」とか「芳香」と云う言葉が今後頻繁に登場するが、所謂 「名器」といわれる
楽器は総てブランド固有の 「甘美な芳香」が備わっており、その「甘美な芳香」こそが人を引き付
けるのである。「整音」というのは本来その楽器が持ち合わせている「甘美なる芳香を心地よい響き
と共にホールに充満させて観客を酔わしめる為の作業」なのである。
「ピアノの音に芳香とは一体何ぞや? そんな馬鹿げた話聞いたこともない」という懐疑の目を皆
様お持ちになられる事と思う。実際何人もの方からこの言葉を頂戴した。しかし私自身は香水、香、
花の香り、食べ物、果物など、この世の中に存在する具体的な品物の香り、として実際に感じるの
である。この抽象的とも言うべき芳香成分は完璧な整音が施されたピアノの音にしか存在しない。
人間の可聴周波範囲は普通の人で上は〜16.000Hz、耳の良い人で〜20.000Hz位とされているが、
ここで云う「香り成分」は大体 16.000Hz〜50.000Hz 程度、もしくはそれ以上の周波数帯域で感じ
るものと思われる。いわゆるオーディオの世界で言う「音場感」もしくは「生々しさ」に相当する。
音としては全く聞こえてこないので 「我々の認知の範囲外」と言われる方がおられるかも知れない。
しかし長年にわたって真空管アンプの設計製作、スピーカーシステムの構築など、なかでも最も難
しいと言われているピアノ音楽の録音、および再生を研究している私にとっては絶対に切り捨てる
事の出来ない周波数範囲なのである。
20.000Hz以上の単音を聞かされても一般の人には全く聞こえてこないが、同じオーディオシステ
ムで20.000Hz でカットしたピアノの再生音と50.000Hz 程度まで伸びたピアノの再生音を聴き較べ
てみると「質感」「香りの濃さ」「円やかさ」など、音色の美しさに於いてその差は歴然としてい
る。(但しLP盤 の場合に限る) この音色の差は音楽に関係のない一般の人にでもはっきりと区別す
ることができる。これは何を意味するかと言うと、実際の整音作業に於いては《可聴周波数範囲を
遥かに超えた楽音としての高次倍音を作り出さなくては美しい音色が得られない》と言うことであ
る。言い換えれば、研ぎ澄まされた耳を頼りにあらゆるテクニックを駆使して「ピッカーと硬化材
をうまく利用する」と言う事である。このことはこれから先、私が整音理論を展開し、実技の説明
をするうえで極めて重要な事柄なので、まず大前提として頭に入れておいて欲しい。