オーディオマニアの為のピアノ楽入門 その4
今回は弦についてご説明致しましょう。 チェンバロからハンマークラビアにかけての時代にはまだ鉄骨と言うものが無かった為、弦の太さは現代 のピアノに比べ、かなり細く、また張力も低いものでした。従って音量は小さく、現代のピアノのような艶 やかでブリリアントでしかもダイナミックレンジの大きい音は出ませんでした。しかし昔のものはそれなり にその設計から来る、現代にはない潤いのある繊細な木製の音色を持っています。1800年前後のイギリ スの世界的名器、ブロードウッドと言うメーカーの長方形の「スクエァ」と言われる小さなピアノの現物を 見てみますと鉄骨は付いているものの、張ってある弦は真鍮製で糸の様に細いものです。そしてハンマーヘ ッドの大きさは小指の先ほどしかありません。時代を経て1800年代の中期に入るとブロードウッド製の フルコンサートクランドの大きさは奥行き2メートル40センチもあり、現代の物と比べてもあまり大差は ありません。しかも弦の太さにしても現代の物とあまり変わりありません。鉄骨は前回、前々回にご説明し た通り、組み立て式です。こんな組み立て式鉄骨の華奢なものでよく張力に堪えられるな、と言う疑問が沸 いてきますが、何故かと思われますか。 組み立て式鉄骨でも十分に堪えられる理由は「現代の音楽ピッチは A、つまりラの音が440ヘルツで所謂、 時報に使用されている高さですが、この頃のAの音の高さは現在使用されている高さより半音程低かった」と 言う事です。全体に半音低くなれば張力は大幅に下がり、組み立て式鉄骨でも十分に耐えられる、という訳 です。その後、フル鉄骨の出現と鋳物技術の進歩により、ここ100年間の間により華麗でブリリアントな 音色追求をして来た結果として徐徐にピッチが上がり、半音程も上がってしまった、という訳です。これに 伴ってストラディヴァリ、アマティー、グァルネリ、などのヴァイオリンの世界的名器もガット弦(羊の腸か ら作ったもの)から鋼鉄弦に、また構造の方も殆どネックを取り替えられて長さが変化してきています。 現代に生きている我々がこの時代のピアノを復元する場合には復元後、現代のピッチに合わせるべく弦の 太さを純正品に比べ半番手細いものを張ります。そうしないと弦とか歌、管楽器などとの合わせ物が出来な くなってしまい、ピアノソロ用としての役割しか果たしてくれない、と言うことになってしまうからです。 厳密には同じ太さの弦を使用し、当時行われていたピッチでの調律をすべきでしょうが、これについては修 復の専門家の意見の分かれる所です。 今、昔のピアノは半音程低く調律されていた、と言いましたが皆様何か疑問に思われる事はありませんか。 現代のピアノのドのキーを叩いた時、音の高さとしては古典ピアノではドのシャープのキーを叩いた事にな ります。そうすると昔の作曲家が例えばハ長調で作曲した作品を現代のピアノでその曲を弾くと古典ピアノ で言う嬰ハ長調 (全体に半音程上がった調性、シャープが七個付きます) で弾いているような感じがします ね。半音もの高さの違いと言うのはかなりの音楽表現の差というものが出て来てしまいますよね。現在我々 がレコードなり音楽会で聞いている作品は現代曲を除いては全て当時より半音程程高いピッチで聴いている、 と言うことになります。この辺の調性についてのお話はまた別の機会に詳しくご説明する事にします。 現代のピアノに使用されているピアノ線は所謂、一般に言われている工業用で使用されるピアノ線とは全 く別物で、我々はピアノ線と言う言い方はしません。ミュージックワイヤー、または単にワイヤーと呼んで います。工業用に使用されるピアノ線とは比較にならないほど質の高いものです。ピアノに使用されるミュ ージックワイヤーはその音の高さを保つ為に常に80キログラムから90キログラムの張力に保たれております。 大体1オクターブ程規定より高くすると切れてしまいますが、可也のマージンをとって設計されています。こ れらの張力に耐えるには弦の均質性が良くなくてはなりませんし、また少しでも内部にクラックとか巣が入 っているとたちどころに切れてしまいます。又振動する部分と振動しない部分の境目、即ちブリッジにおい ては金属疲労を起こします。弦が切れるときは大体がこの部分で切れます。もう一つ工業用のピアノ線との 大きな違いとして断面の真円度が比較にならないほど精度が高い、と言うことです。真円度が低いと「単弦 唸り」とか「ひなり音」といって音が綺麗に伸びて行かず、とても不愉快なワンワンと言った唸りが出て来 たり、時間と共にとんでもない音の響きに変化してしまったり、この上ない下品な音色になってしまいます。 またすべての場所に於いて高調波までをも作り出すべく振動してくれないと素晴らしい音が得られません。 楽器に使用される弦の製造技術の難しさと言うのは「大きな張力に堪えられる事」と出来る限り高調波を も振動出来るだけの「しなやかさ」、相反するものを同時に満足しなければならないというところに難しさ があるのです。ご説明したようにミュージックワイヤーと言うのはピアノに限らず、弦楽器すべてに於いて 大切な役割を担っております。これもまた工業技術の高度化による産物と言っても良いでしょう。 次に低音部、バス弦についてご説明いたします。理論的にはどんどん弦を太くし、長くすれば良いように 思われますがこれが理論どおりに設計しても音の高さはクリアー出来ますが、高調波の振動が実際には出来 なくなってしまい、低音部に行くほど緊張感のない何かベールを被ったような音色になってしまいます。そ こで銅巻き線を芯線に巻いて重量を増そう、という訳です。巻き線にすれば芯線は細いので高次の倍音も楽 に出す事が出来、しかも短い弦長で低音部の基音も同時に出せる、という訳です。 低音巻き線部分は大体の場合最低音No.1キーからNo.10キー位までは一本弦(No.1からNo.6までの巻き線 は二重巻き線といって細い銅線を巻いたものに更に極太の銅線を巻いてあり、重量を重くしてあります)、 中音部セクション始めから3キーくらいまで、鍵盤では No.28キー前後まで二本弦という構成で設計されて おりますが、大型のセミコンサートグランド、フルコンサートグランドになりますと巻き線で一つのキーに つき芯線同様、三本張りの部分が低音、中音セクションをまたがって 3キー位ずつ張ってある、と言うのが 一般的な設計です。いずれにしても巻き線部分はNo.1キーからNo.27、No.28番目位までが一般的です。前々 回九月号でご紹介致しました写真のうちの上から二番目の写真は1864年製のブロードウッドのフルコンサー トグランドですが低音部と中音部が交叉していないものの、巻き線の張り方がよく解ります。九月号をお持 ちでない方は是非本誌編集部より取り寄せてください。 ギターのような張力が弱く、巻き線も細いものは巻き線そのものがブリッジを通り越して巻いてある為、 理想的な振動をさせる事が出来ますが、ピアノの場合、巻き線が太く、張力も高いためそれが出来ません。 従い、どうしてもブリッジとブリッジ (ピアノの場合は片方が駒ピンになります)の内側で巻き始めと巻き 終わり、と言う設計をせざるを得ません。これは振動する弦の重量バランスが崩れていると言う事になって しまい、高次の倍音が綺麗に出てこないと言う事になります。実際にブリッジと巻き線開始の間が透いてい る巻き線は殆どのピアノについて倍音が著しく狂っており、基音をもとに綺麗に調律しても調律が極端に狂 っているように聞こえて来ます。この事を考えるとまだまだピアノという楽器は改良しなくてはならない所 があり、それが中々クリアー出来ない、と言うことです。面白い事に1864年製の前々回の写真でご紹介 いたしましたブロードウッド社製フルコンサートグランドにおいては巻き線そのままの状態で駒の上を通過 し、ヒッチピン近くまで巻いてあるのがよく解ります。 John Broadwood 低音巻線部分 このような巻き線の張り方は極めて珍しく、恐らく古今東西この型のピアノにしか採用されていないのでは ないかと思われます。当時の設計技術者が上記の説明をした不都合な響き、つまり楽音に寄与しない不要な 高次倍音に悩まされた結果の苦肉の設計であると思われます。しかし現代のピアノでこのような設計をする と張力が高い為、たちどころに駒ピンの付け根の部分から駒にひびが入ってしまう事は間違いありません。 駒ピンは約60度の角度で駒に釘を打つかのように一本の弦に対し、二本互いに逆の角度で刺さっており、こ こを弦が通過し、弦の張力で弦が駒にピタリと密着するように設計されております。従い、常に弦の張力が 駒ピンを起こそう起こそうと言う力が働いているのです。我々技術者がピアノを選定する時には駒ピン部分 の駒板にヒビ割れが生じていないかどうかをまず見ます。新品のピアノでこの部分にヒビが入っているもの は必ずと言ってよいほど何年か後になってひび割れが拡大し、この部分から何とも嫌なノイズが出てきます。 特に低音部の駒については新品時から割れているものがけっこうあります。皆様もピアノを買うときは必ず ココを点検して下さいね。 次に巻き線の巻き方についてですが、これについても高度な技術的ノウハウがあり、何十年もの経験を経 たベテランの巻き線職人に巻いてもらわないと綺麗な高次の倍音が出てきません。 100年以上もの歴史を誇 る世界的メーカーはこの巻き線技術のノウハウをそれぞれ持っている、と言われております。音の響きに大 切な倍音の腹に当たる部分と節に当たる部分の巻きの締め具合を微妙に変化させる事によって美しい倍音を 作り出しているのだ、と言われております。私もドイツ、グロトリアン社の工場で巻き線を巻く事に挑戦し ましたが中々巧く巻けない、と言う事が解りました。 ピアノと言う楽器は近代科学、工業技術の発達と共に改良に改良を重ねた結果、素晴らしい音色のピアノ が製造出来るようになった、と言っても過言ではありません。ピアノの歴史を語るとき、産業革命で有名な 「イギリス」と言う国のブロードウッド社を抜きに語ることは出来ません。ブロードウッド社は世界で初め てピアノと言う楽器の大量生産をした会社でこの時代に世界で最も素晴らしいピアノを生産していた会社で もあります。 今後科学技術がもっと進歩したとき、100年、200年先のピアノ、はては1000年先のピアノはどんな格好に なっていくのか、どんな音色に変化していくのか、そして演奏されるピッチはどの位まで上がっていくのか、 私には想像もつきません。しかし厳然として未来永劫クラシックの名曲といわれるピアノ作品は演奏されて いく筈です。それでは次回をお楽しみに。