オーディオマニアの為のピアノ楽入門 その15
鍵盤のはなし(その2)
白鍵の材料について
最高級のものは皆様もご存知の通り、「象牙」を使用致します。「象牙鍵盤」と言うと何かとても贅沢品の
ように聞こえますがピアノに使用する場合、使用しなくてはならないそれなりの理由があります。昔のピア
ノは代用品としてセルロイドが使用される場合が多くありましたが現在ではアクリルが主流になっておりま
す。象牙には非常に細かい気泡というか、気孔があり、水分を微量ながら吸収する性質があります。したが
って速いパセージなどを連続して弾いていて指に汗をかいた時などは滑らずに逆に吸い付いてくれるような
感触があります。またアクリル鍵盤に比べ、硬さが柔らかい為しっとりとしたとても感触のよいタッチが得
られます。コンサート用ピアノには欠かせない素材と言っても良いでしょう。残念ながらワシントン条約に
より、発効後は例えフルコンサートグランドと言えども例外ではなく、すべてアクリルに変わってしまいま
した。こんなことから日本ではその後人造象牙または模造象牙と言って象牙の性質に良く似た素材が研究さ
れ続けられ、以前は真っ黒に汚れが染み込んでしまう物など、頂けない代用品もありましたが現在では素晴
らしい物が出来ております。
マンモスの牙が白鍵に
人造象牙の研究開発がまだ不充分であった頃、ロシアの凍土地帯から無数に出てくるマンモスの牙がロシア
より輸入され始めました。私自身はマンモスの牙を象牙の代用にするなんて発想はそれまで微塵もありませ
んでした。一瞬、数万年も前のこんな貴重な地球遺産を使ってしまって良いものかと思いましたが好奇心も
手伝い、早速ピアノの材料屋さんから一台分の見本を頂き、テストしてみる事にしました。硬さ、加工の感
触などは殆ど変わりはありませんでしたが最後の艶だしの段階でどうしても程よいとろりとした艶が出ず、
コンパウンドで磨いても磨いても七分艶位までしか艶が出ませんでした。弾いた感触も少々ざらつきを感じ
ました。しばらく弾いているとだんだん黒く、汚れが目立ってきました。コンパウンドで磨いても取れませ
ん。結局のところ象牙に比べ、空気層と言うか空気の柱というか、植物で言ったら導管のようなものが象牙
に比べ、直径が大きかったため汚れがしみ込んでしまい使い物にならない事が判りました。また弾いたとき
の感触も象牙に比べ、「べとつき」のような感触がありました。一時的にはこれに代用できるかもしれない
と言う希望的観測も空しく、すぐにこの「マンモス象牙」は廃れてしまいました。その後はまったく見かけ
ません。
ここで少し話が逸れますがワシントン条約の話が出ましたので少し私見を述べておきたいと思います。新品、
中古ピアノの輸入に関し、条約発効直後はせっかく象牙が貼ってあった鍵盤でもすべて税関で剥がされてし
まい、輸入された個人の方、あるいは業者の方はたいへんな損失を蒙ったものです。ワシントン条約発効後
に製造されたものはいざ知らず、発効以前に製造された物にまで何月何日を以ってすべて輸入禁止とはいか
がな物かと思いました。結局のところ交渉も空しく、はがされ、没収され、廃棄処分になったものの、国内
にある象牙の在庫品を再度貼り直すという、なんとも無駄な事をやっておりました。ピアニストに頼まれ、
何台もの象牙鍵盤を貼ったものです。法律は条約発効以前に作られたものに対しては輸入許可、という「特
例」を一切認めませんでした。この「特例なし」の悪法により、没収され捨てられてしまった数少ない貴重
な象牙鍵盤が何百台分になるかわかりません。骨董品にしてもそうでした。古美術品の中に象牙が一部使用
されていても輸入禁止かその場で象牙部分を剥がし、没収されてしまいました。古美術品、骨董品に関して
現在はどのような扱いになっているのかは判りませんが、本当に腹立たしく思いました。
黒鍵の話
黒鍵の材料として最高級のものは黒檀です。一般的にはベークライトとかエボナイトのようなものが用いら
れます。戦前のベークライトの黒鍵はまだ加工技術と言うより成形技術と粉末加工が未熟だったせいか、表
面がザラザラしたものが多く、これまた嫌なタッチの物が多くありました。黒鍵は白鍵に比べ、速いパセー
ジの曲を弾いていると指先に汗をかいたときは滑ってはずれ易くなり、ミスタッチをしてしまいます。そこ
で水分を適度に吸収し、しかもなかなか磨り減らない黒檀を用います。黒檀は黒鍵としては最高級のものと
して用いられますが、一段階安い物になりますと紫檀を使用し、黒く染めてある物があります。なかには染
料に水分を吸収しないラッカーが塗ってあるものもあり、何の為に木材を使用したのか、機能的に無意味な
物もあります。
黒鍵の巾について
黒鍵の巾と言うのはどうも国際基準で決まっていないらしく、非常にスマートなものからずんぐりした巾の
広い物もあります。1920年代べヒシュタイン社のアップライトなどは極めて巾が広く、黒鍵と黒鍵の間に指
が挟まると中々抜けません。グランドピアノでも古い物はしばしばこのような巾の広い黒鍵を見かけます。
西洋人の大男のグローブのような手の人はそれこそ指が挟まらない特殊な奏法を用いたのではないかと思わ
れます。今ではどこの会社の物でも黒鍵の形状はスマートで同じような形状に見うけられます。しかし昔の
物に比べ細くなったとはいえ、太い指の人は挟まってしまい、抜けなくなってしまいます。巨匠と言われる
人で手が大きく指が太い人の演奏中の指の動きを丁寧に観察してみると、絶対に挟まれないタッチで演奏を
しているのが良くわかります。
私はイェールク・デームスさんと握手をしましたが本当に大きな太い指をしておられました。ドからソまで
届くそうです。ピアノの鍵盤の寸法と言うのは誰が決めたのかははっきり判りませんが、オルガン、チェン
バロよりは一回り巾が広く出来ております。ピアノという楽器の鍵盤は西洋人の男性用に出来ているのでは
ないかと時々思ってしまう事があります。
これは聞いた話ですが作曲家の中田喜直先生は全体に巾の狭い鍵盤を特別注文で作ってもらい、弾いておら
れたそうです。読者の皆様の中でももっと鍵盤の巾が狭かったらな、などと思われている方は特に女性の場
合には多いのではないかと思います。自分専用のピアノでしたら特注で作ってもらう、というのも指が届か
ない解決法の一つかも知れませんね。
黒鍵の巾のばらつきについてお話致しましたがここで珍しい形状をした黒鍵をご紹介致しましょう。私が所
蔵致しております1922年製グロトリアンピアノのグランドピアノの黒鍵は指が外れないように指のRとでも
言いますか、丁度指がぴたりと黒鍵に納まるような曲率で丸く窪みをつけてあります。奥へ行けば行くほど
深く彫ってあります。これもまたグロトリアン社の特許だそうです。
ペダルの働きについて
詳しくはペダルアクションについて構造図をもとにお話しなくてはなりませんが、その前にピアノのペダル
と言うのは演奏上それぞれどのような働きをしているのかをご説明しましょう。古いピアノ、古いピアノと
言っても大体戦前から昭和30年代までのはアップライト、グランドとも大体二本というのが普通で、現代の
物は三本ペダルが標準になっております。もっともっと古い物、例えばモーツァルト、ベートーヴェンの時
代の物などは8本、10本ペダルなどと言う物もあります。まっ、これらのペダルはピアノ曲を演奏するために
使用するのではなく、大小の太鼓が付いていたり、シンバルがついていたり、所謂ピアノに設置してある打
楽器を叩く物としての役割を果たしております。太鼓、シンバル付きのピアノでトルコ行進曲を演奏すると
あたかも当時のトルコの軍楽隊のような雰囲気が出てきますよ。弾きこなせるとさぞ楽しいことでしょうね。
T 左のペダル(弱音ペダル)
基本的には演奏中に小さな音で演奏したい場合に使用致します。アップライトの場合は打弦距離を短くし、
ハンマーヘッドが弦を叩くエネルギーその物を押さえ込むシステムを採っております。ペダルを目一杯踏ん
だときは48ミリあった打弦距離が24ミリになります。したがってハンマーヘッドを前方に押しやる為の突き
上げ棒(ジャック)には少なからずガタが出てしまいタッチがカタカタしてしまいます。まるで滅茶苦茶に調
整が狂ったピアノを弾いているようです。これはアップライトピアノの欠点と言っても良いでしょう。賢明
な弱音システムは未だに発明されておりません。
アップライト弱音ペダルOFFの状態 アップライト弱音ペダルONの状態
これに対しグランドピアノの場合には鍵盤ごと、つまりアクションそのものが右にシフトし、ハンマーヘッ
ドが叩く弦の本数が三本から二本になります。その結果音が小さくなります。左のペダルはアップライト、
グランドピアノともに弱音ペダルと呼ばれていますが、グランドピアノの場合にはその目的は必ずしも弱音
として使用している訳ではありません。
グランドピアノの弱音ペダルOFF状態 グランドピアノの弱音ペダルON状態
このOFF、ON状態におけるハンマーヘッドの左右の位置は各社の指定でまちまちです。この写真のOFF状態
でのハンマーヘッドの位置は三本の弦の真中です。ベヒシュタイン社、グロトリアン社など、多くのドイツ
のメーカーはこの調整方法を採用致しております。
ドイツのべヒシュタイン社、グロトリアン社などは左のペダルを弱音ペダルとしては認識いたしておりませ
ん。普通はペダルを踏んでいない状態で弾いている訳ですからハンマーヘッドには少しずつ三本の筋がつい
てきます。弱音ペダルを少しずつ踏む事によって打弦ポイントはそれに伴い左にずれてまいります。常時打
弦しているポイントと左にずれたポイントではハンマーヘッドの硬度、毛足の状態が変化します。それによ
って音色も当然変化致します。べヒシュタイン社、グロトリアン社はずれる距離を弦と弦の中間点まで、と
しているので三本が二本になることはありません。したがって左のペダルは弱音として使用するのではなく
「音色を変化させる為のペダル」としています。ハーフペダル、四分の一ペダルで音色がそれぞれ違い、そ
の違いを音楽表現として採り入れております。したがって演奏上ハーフペダル、四分の一ペダルの状態での
通常の打弦、フォルテで打弦する場合も当然あります。日本国内の音大のピアノ科ではどうもこの辺のぺダ
リング技術は教えていないようで、殆どのピアノを弾かれる方がこの事を熟知しておられませんし、「こん
なこと初めて聞いた」と言う方が沢山おられます。
音楽学校の調律科などでは通常状態で三本の打弦を弱音ペダルを踏んだとき二本の打弦になるように調整し
ている所が沢山あります。また一般の調律師もこの方法を採用している方が多数おられます。これはピアノ
メーカーによって左のペダルの使用方法の解釈の違い、つまりハンマーヘッドの移動距離の違いから来てお
り、三本を二本にするメーカーも沢山あると言う事です。力学的に考えた場合には三本弦の真中に来るよう
にした方が強打したとき、重心バランスが崩れる事がないのでこの調整方法の方が良い事は明白です。
私はべヒシュタイン社のマイスターにこれは弱音ペダルではないのか、一本外れなくてはならないのではな
いか、と質問しましたところ「ピアニストは限りない弱音をもペダルを踏まずにむらなく出せなくてはなら
ない、その演奏テクニックを持っていないピアニストは一流とは言えないのだよ」と言われました。
たった今グランドピアノにおいて左の弱音ペダルを踏むとアクションが右にシフトする、と申し上げました
が必ずしもそうとは限りません。いつ頃から右にシフトする事に統一されたのかは解かりませんが1920年代
のグランドピアノの中には左にシフトするものも多々あります。スタィンウェー社、ホイリッヒ社のものは
日本でもしばしば見かけます。アップライトピアノでも100年ほど前のものの中には鍵盤ごと右にシフトする
もの、ハンマー部分のみがシフトする物などがありますが現在では廃れてしまっており、見る事はありません。
おなじく100年ほど前のアップライトピアノのなかには弱音ペダルを踏むと現在のマフラーのようなメカニッ
クでハンマーヘッドの下から薄手のフェルトが上がってくる物もあります。このメカニックはイギリスのピア
ノでしばしば見かけます。
次回は右のラウドペダル、真中のソステヌートペダルについてご説明致します。