オーディオマニアの為のピアノ楽入門 その14
鍵盤のはなし(その1)
鍵盤は指の力を直接受け、メカニックにその力を伝達する始めの部分、言ってみればピアノの顔、と言って
も良い部分です。唯一指が直に触れる部分でとても大切な役割を果たしております。この鍵盤はどのような
構造になっていてるのでしょうか。またどのような材料で出来ていてどのような工夫がなされているのでし
ょうか。鍵盤の全体像を示しましたのでじっくりご覧下さい。(写真1)
(写真1) アップライトピアノの鍵盤の全体像
皆様が見慣れている部分は鍵盤全体の前三分の一程度のアクリル、ないし象牙、黒鍵で言えばエボナイト、
ないし黒檀の部分です。動きとしては簡単な表現で「シーソーの様な」、とでも言うのが良いかも知れませ
ん。もう一つ、鍵盤の下には鍵盤枠(写真2)と言うものがあり、バランスピンとフロントピンが枠の中央部と
前部に刺さっております、というよりある深さまで叩き込まれております。
(写真2)アップライトピアノの鍵盤枠
各ピンと鍵盤の接触部分は緩くもなく、硬くもない適当な摩擦を生じさせる為にブシングクロスという丈夫
な目の詰まった布が入ります、と言うより鍵盤側にブシングクロスが貼ってあります。こうすることによっ
て鍵盤は左右にぐらつく事もなく(写真3)、また傾くこともありません。(写真4)
(写真3)フロント部分 (写真4)バランス部分
ブシングクロスについて
前回でも少し触れましたがここでブシングクロスについて少し詳しく説明しておきます。ブシングクロス如
きに何故そんな詳しく述べなくてはならないのかって? 新品のピアノの所謂「しつとりとした」タッチはこ
のクロスの状態で決定されてしまうからなのです。ブシングクロスが貼ってある部分は全て金属との摩擦部
分です。ですからクロスが柔らか過ぎたり薄すぎたりするとがたつきが出るし、また表面が硬すぎると適度
な摩擦に調整しても「しっとりとした」タッチが出てきません。目のつんだ摩擦に強いクロスでしかも毛足
が密でしっかりしていて復元力による適度な摩擦と言うものが理想的なタッチを生み出します。「理想的な
硬さ」と言いましたが各部品の蝶番、金属部分との摩擦の力はそれぞれ個所により総て違います。使い古し
たガタガタのタッチのピアノは厳密に言いますと前回で説明いたしましたフレンジのブシングクロスの取り
替えは勿論すべての個所の摩擦部分を理想的な硬さにもって行かなくてはなりません。ピアノの修復という
のは厳密に作業をすると気が遠くなるほど大変手間のかかる事なのです。このような作業をして初めて新品
当時のタッチが出て来るのです。ちなみに私は以前約100年前の名器のアクションを徹底的に復元をしたこと
がありますが費やした期間は半年も掛かりました。勿論新品当時の素晴らしいタッチが出てきました。
ブシングクロスには厚さが色々とあり、薄手のものでは一ミリ位のものから、厚手のものでは二ミリ近いも
のまで各種用意されております。(写真5)スィックネスゲージで測定してみますと同じ厚さの規格であっても
メーカーによって、また同一クロスでも可也の厚さのズレがあります。しかしこの厚さのズレはピアノを修
理する上でさほど問題になりません。要は使い方次第と言ったところです。
(写真5) ブシングクロス(左) と スィックネスゲージ(右)
材料と木目の採り方について
鍵盤の材料は出来るだけ乾燥された目の詰まった松材を使用します。幾つかの松材の木目の揃った部分を張
り合わせ、一枚の板にした後に一番鍵盤から八十八番鍵盤までを切り出します。勿論一台のピアノには一枚
の板から切り出したものを使用します。高級なピアノになればなるほど木目が詰まっており、真っ直ぐ先端
までその木目が延びております。途中で木目が曲がったり節があったりする事はありません。(写真6)使用す
る木目は鍵盤を真上から見たとき木目が水平に走るように、言い換えると年輪の中心部が真上か真下になる
ように木採りをします。
(写真6) 鍵盤の木目取り
このような木目採りをすることによって後々の左右方向への反りを最小限に食い止めます。上下方向に対す
る反りに対しては写真2 にも示しましたようにバランスピンに挿入されているブシングクロスの下に入って
おります「バランスパンチング」というドーナツ形の紙を入れたり出したりで調節ができます。このバラン
スパンチングの厚さは鍵盤の高さを調節する大切な役割を果たしております。
精密に調整されたピアノは鍵盤を真横から見ますと高さが一線に揃っており、また鍵盤全体が平面として見
る事ができます。材質の良くない年数の経ったピアノを見てみますと左右の反り、捩れなどて鍵盤の奥先端
が一線に揃わないものを度々見かけます。ひどいものでは先端部が隣の鍵盤と接触してしまいノイズが出る
もの、はてはキーを押した時、隣の鍵盤が一緒に下がってしまう物まであります。修理方法としてはカンナ
を使用し、接触しない安全な寸法まで削る作業をします。そんな訳で百年近く経った古いピアノまでをも扱
う私は常に木工作業が出来るべく、ノミ、カンナ、鋸、錐、切り出しナイフ、などを工具鞄に常に携帯して
おります。
鍵盤が折れた話し
以前、調律中に鉄骨が折れてしまい、ピアノを弁償した話しを致しましたが今回は調律中に鍵盤が折れてし
まった話しです。調律中に鍵盤が折れてしまった経験は何度かありますがなかでも何でこんな時に、という
ショックなことがありました。今でも忘れはしません、それはコンサートの直前の出来事でした。強打のテ
ストブローをした時、音が出ません。鍵盤が折れてしまった事はすぐ感触でわかりました。一瞬頭の中が真
っ白になってしまいました。気をとり直してあわててアクションを分解し、応急処置をし、コンサートに臨
みました。折れた鍵盤は時間をかけて後で修理しました。
こんな場合、調律師に責任はあるのでしょうか。私は折れるたびに責任の所在について考えます。調律師は
こんな時、ピアノの持ち主に謝らなくてはならないのでしょうか。そんな思いをドイツに滞在中、ベヒシュ
タイン社のマイスターに言った事があります。マイスターは心強い回答を下さいました。「君がどんなフォ
ルテシモでキーを叩いても巨匠が弾くフォルテシモには及ばないであろう、君が調律中に鍵盤を折った、と
言う事はピアニストにとっては幸いな事だったのだよ、恐らく演奏中にその鍵盤は折れたに違いない。前も
って折れる要因があったに違いない、もともとピアノに欠陥があった、と言う解釈をしなさい、なにも詫び
る事などない」と言われました。そしてこんな事も言われました。「ベヒシュタイン社では出荷前にそれら
の欠陥が見つかり次第それらを修理しているのだよ、鍵盤が折れないように丁寧に適当なフォルテでテスト
ブローをするなどもっての外、私自身、力いっぱいフォルテシモで何度も同じキーを叩くのだよ、鍵盤が折
れたりハンマーが折れればそれはそれでこのピアノにもともと欠陥があった、と解釈しているのですよ、、
、」とても安心した一言でした。
下に示した写真は鍵盤の中央部、バランスピンの部分です。最も曲げの力のかかる部分ですがこのように
木目が節になってしまっています。このような鍵盤は木採りが悪く、折れ易い鍵盤です。
グロトリアンの鍵盤の工夫
1970年代から1980年代にかけてのグロトリアン社のフルコンサートグランドの鍵盤は積層材が使用されてお
ります。層と層の間隔が非常に密な積層材です。このような材料を採用したのも演奏中、どんなフォルテシ
モで弾いても絶対に折れないようにと云う、ピアニストへの配慮からです。かなり強靭なもので普通の鍵盤
に対し、数倍の強度を持っているそうです。
次回は白鍵、黒鍵の材料、とタッチ、音色の関係についてお話ししましょう。