オーディオマニアの為のピアノ楽入門 その10

今回は響板についてご説明します。(その一)

一、 響板について

響板に使用される木材について

 響板はピアノの弦振動を空気振動に、つまり音に変換させる為の大切な部分です。弦楽器一般に云える事で

すが、現在ではピアノ、チェンバロの響板をはじめ、ヴァイオリン族、ギター族の表板の部分には一般的に

松材が用いられます。初期のイタリアのクラヴィコード、スピネット、チェンバロ等は糸杉を使用していた、

と言うことが言われておりますが、現在では「スイス・パイン」と言われる松材を使用している会社が殆ど

です。しかし当のスイスの森林ではもう材木が少ない為、切り出し中止に追い込まれているそうです。そん

な訳で現在ではピアノ用の響板の材料として、カルパチア山脈産の「スイスパイン」が使用されているそう

です。ヨーロッパでは古くはルーマニア産の「スプルース」と言う松材が最も優れていると云われ、ヨーロ

ッパのどこのメーカーもこのスプルースを使用してしたようです。しかしルーマニア産スプルースも現在採

り尽くされてしまい、全くないそうです。現在、ドイツのピアノは大体が北ドイツで産出する「ヒュヒテ」と

いう松材を使用しているそうです。これはベヒシュタインのマイスターから直接聞きました。珍しい松材と

して、国産ピアノのシュヴェスターというメーカーがありますが、このメーカーは北海道産の蝦夷松を使用

しており、他のメーカーにはない素晴らしい気品に満ちた香りと響きを持っております。もしかしたらこの

シュヴェスターピアノこそ響板に蝦夷松を使用している、という点で日本を代表するピアノの音色、と言え

るのかもしれません。もう一つ珍しい材料として、アメリカのストーリー&クラークと言うピアノの響板は松

材ではなく、マホガニー材が使用されております。このメーカーの響板を見ると、敢えて我が社はマホガニ

ー材を使用しているのだという事を説明する大きなシールが貼ってあります。このピアノも底抜けに明るく、

明快なアメリカ人好みの響きを持っております。このピアノこそデキシーランドジャズを演奏するには持っ

てこいの音の響きです。もっともっと珍しい材質として、何と、真鍮の板を響板として使用しているピアノ

もあるのですよ。これには恐れ入りました。やはり予想通り、アメリカ製でした。如何にもアメリカのメー

カーならではの考えそうな事ですね。ヨーロッパの一部の人達が「アメリカ」と言う国の文化をバカにする、

と言うのも判らないでもないですね。しかし、だからと言ってアメリカを決してバカにしてはいけません。

ピアノの発達史にアメリカは多大な貢献をしており、多くの素晴らしい特許があります。アメリカにも世界

に名を知られた其れは其れは素晴らしい音色のメーカーが沢山あるのですよ。世界各国の名器についてのお

話は何れこの紙面上でお話すつもりですので楽しみにしていて下さいね。

 話は松材に戻りますが、1900年代初頭の世界的メーカーではこれらのピアノに使用する木材をある程度の

大きさに切断し、風通しの良いトンネルの中で約七十年もシーズニングしてから使用したとも聞いておりま

す。と言う事は七十年後の生産台数が決まっていると言う事なのですね。凄い事だと思いませんか。いつ頃

までこのような乾燥方法と生産計画が続いたのかは私には判りませんが予想では1940年代初頭までではない

かと思います。(要調査です)何十年もの乾燥、つまりこのシーズニングは楽器の材料として使用するには極

めて大切な事です。木材に含まれる樹脂成分をほぼ完全に排出し、十分な乾燥を施した後使用する事によっ

て後々の代に亘って寸法的な狂いが来ないと言うことです。しかしその楽器がどのような環境の許に使用さ

れてきたかによって狂い方が全く違ってきますので必ずしも狂いが来ないと言うことは云えません。その楽

器にとって極めて良い環境のもとに使用、管理されていれば狂いが少ない、と言う事です。

ピアノの湿気と乾燥の影響について

話は少々反れますが「板の狂い」について私自身の苦い経験を少しお話しておきます。私は1905年製、

グロトリアン(独)の手の込んだ手彫り彫刻入りの、まるで高級な仏壇を見ている様な巨大なアップライトピ

アノを所有しておりますが、十年ほど前、一時的にある人の所に預けました。クロス、フェルト類は勿論、

弦、ピンも新品にし、完全に復元をしたものです。預けた後、一年も経たないうちに響板はバリバリに割れ

てしまい、駒、響棒までもが剥がれてしまっておりました。そのうえ、アクションの部品までが変形してお

り、外装の塗装は亀の子状の亀裂が無数に入ってしまっており、チューニングピンはグスグスになってしま

い、大変ショッキングな経験をした事があります。何年も掛けて綿密に修復し、彫刻まで自分で修復したも

のです。其れこそ計り知れない価値のあるピアノです。一体何が原因でこんなになってしまったのだろうか

と思い、色々と保管状況を聞きましたところ、何と、昔学校にあった石炭を焚くダルマストーブを冬場に使

用したそうです。今の時代に「まさか」と思いましたが事実でした。よくよく見るとアクションの部品類、

フェルト、クロス類までが黒い煤で汚れておりました。私がピアノの保管方法について何も知らない素人の

所に預けたのが悪いので、預かった人には何も責任はありません。私は以前にもこのコーナーで書きました

が、お客様のドイツ製のピアノを調律中に鉄骨が折れてしまい、高価な世界的名器のドイツ製を弁償したの

に続き、この時も莫大な損害を蒙りました。

 ここで私が経験した大変嫌な思いを皆様に決してさせたくないのでピアノの保管方法について大切なこと

をお伝えしておきましょう。ピアノは一般的には湿気が良くない、と言うことが云われますが実の所は「過

乾燥の方が遥かに怖い結果を生む」ということです。湿気によるピアノへの悪影響としてはアクションの蝶

番の動きが鈍くなり、クロスやフェルト類が膨張し、鍵盤の戻りが悪くなったり、弦が錆びたりハンマーフ

ェルトの湿気による音の出が悪くなる、といった所です。しかしこれらの不都合は我々調律師にとっては大

した不都合な事ではなく、修理可能なものばかりです。乾燥剤を調律師さんに定期的に交換してもらってい

ればこれらの症状は大体は防ぐ事ができます。其れに対し、過乾燥の場合の故障はそれは恐ろしいものです。

ピン板の膠が剥がれてしまい、ピンが緩くなって音律が取れなくなったり、響板がバリバリに割れてしまっ

たりと、それこそピアノの心臓部が完全にやられてしまいます。これら過乾燥に対する対処法としては冬場、

石油ストーブなどを焚く場合には必ず加湿器を設置し、さらにピアノの中に水に浸したあと、絞った布を入

れておき、時々交換すると言うことです。穴を開けたビニール袋をピアノの底板に入れておけば良いでしょ

う。そして湿度管理を徹底して行う、と言う事です。こうする事によって過乾燥に対する対処は万全でしょう。

響板の材料として何故松材が使われるのでしょうか

これには幾つかの理由があります。

一つ目の理由

松は他の木材に比べ「しなり」があると言われています。「しなり」と言うのはどれだけ板が曲がり易いか

と言う事で、弦振動か響板に伝わったとき、どれだけ響板が振幅するか、と言う事です。グランドピアノの

場合には上下運動、アップライトの場合は前後運動です。

二つ目の理由

松は他の木材に比べ「ねばり」があると言われています。「ねばり」と言うのは元の形状状態に復元する力

の度合いを現します。「ねばりがある」と言う事はもとの形状状態に復元する能力が優れていると言う事で

す。ここに揚げた二つの理由は、松材は響板の材料として「材料力学的に優れている」と言う事なのです。

三つ目の理由

十分乾燥した響板用の松材は他の木材に比べ、とても軽く、少しの振動に対しても容易に反応する能力を持

っております。 「名器」と言われるピアノに完璧なヴォイシング(整音)を施しますと、一つのキーを叩い

ただけで言葉では表現できないほどの素晴らしい芳香が部屋一面に漂います。この芳香成分は楽音に寄与す

る数万ヘルツに至るまでの弦振動を響板が無駄なく空気振動に変換しているからであるに違いありません。

言い換えれば響板に使用される優れた松材は「数万ヘルツの振動をも伝える能力を有している」と言うこと

なのです。他の楽器に使用される松材も同じ役割を担っているに違いありません。

四つ目の理由

これは音響学的に完全に証明されております。松材は他の木材に比べ、「音の伝播速度が速い」と言う事で

す。各周波数によって伝わる速度が違うものと思われますが遅いより速い方が良いに決まっております。こ

れはキーを押してから音が聞こえて来るまでの時間に影響を及ぼします。それともう一つ、キーを叩いたと

きの立ち上がりの時間にも影響を与えます。これらはピアニストにとっては重大な問題で自分が奏でる曲を

十分フィードバックできるか否かと言う問題にかかわってきます。

三つ目と四つ目の理由は「音響学的に松材は優れている」と言う事なのです。

音の立ちあがり速度について

べヒシュタインとかペトロフと云ったピアノはスタィンウェーとかベーゼンドルファーに比べ、キーを押し

てから音が出て来るまでの時間が短く、立ち上がりの反応が極めて良いピアノです。ベヒシュタインとかペ

トロフを弾いた事のない人が初めてこれらのピアノを弾くと自分の出している音楽を聞き取る事が出来ず、

音色のコントロールが普段やっているようには出来ません。したがって弾き手の意図する音が思うように出

て来ません。これらのピアノを弾きこなすには相当の耳の訓練と弾き込みが必要です。ちなみにベヒシュタ

インが持つ独特な音色の変化を自由自在に完璧に操り、弾きこなせるピアニストは世界でもそう多くはおり

ません。反応が遅いからと言って名器ではない、と言うのは間違いで、「ピアノには音の出方に大きく分け

て二つのタイプがある」と言う事なのです。

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